心の中の未来像~スタディクーポンを利用して学習に励む子どものストーリー
2019/03/05 子どもの声夕方、バスケットボールを突く音がする。岩手県大槌町の中学3年、千葉日翔(にちか)くんは、学校から帰ると体操服のジャージのまま、自宅前に備え付けたゴールネットをめがけてシュート練習をする。「ナイスシュート」。母・理子さんが軒先から声をかける。
日が沈み始めると、自宅に戻り、机に向かって、勉強を始める。何気ない日常の風景。ここまで来るのに、どれだけ時間が経っただろう。
◆震災の記憶。テレビで見た故郷の光景。
小学2年の頃、東日本大震災が街を襲った。「旅行がてら日翔も行ってきたら」と祖父・新市さんに促され、11歳離れた兄の通う大学のある千葉県へ母と兄と一緒に車で向かっている途中だった。栃木県内の高速道路で、「車のタイヤがはずれた」と思うほどの大きな揺れを感じた。
3人は慌てて、パーキングエリアで車から降り、休憩室のテレビを眺めた。すると、地元の街が津波に飲まれている映像が流れていた。自宅にいた家族と連絡がつかず、不安が募った。

翌日の未明、千葉県内の兄の家に到着した。「ダメって何よ!ダメって・・・」。しばらくすると、母が電話越しに叫ぶ声がした。祖父が津波に流され、行方不明になった。「じいちゃんが・・・」。
◆大きな支えだった祖父。家庭を支えるための母の決意。
日翔くんが生まれて間もなく母が離婚。父の記憶はない。祖父は、日翔くんにとって父のような存在だった。
設計事務所を経営しながら、空手道場を開き、近所の子どもたちや大人約100人に空手を教えていた。幼い頃は、黒帯をおんぶひもにして、よく背負ってもらった。
日翔くんも小学生になると空手を始めた。「イチッ、ニッ、サンッ」。基本の動作を学ぶ。組み手の練習になると、「最後まで諦めるな」と、祖父の厳しい声が飛んだ。

家に帰ると、祖父の表情は穏やかになった。休日には、毎週近くの海まで釣りに連れて行ってくれた。「ほら、もっと遠くに投げろ」。フグやハゼを釣った。
食卓では、祖父の隣に日翔くんが座り、祖父が煮魚の骨をとって食べさせてくれた。風呂、犬の散歩、キャッチボール・・・。何でも一緒。厳しくも温かい祖父が、日翔くんにとって「理想の大人」だった。
震災から1週間後、母と千葉県から大槌町の自宅へ向かった。大槌町に入るためのトンネルを抜けた瞬間、言葉を失った。建物がなく、一面がれきの山。見慣れた町の景色は変わり果てていた。「僕の街はこんなところじゃない」。初めて大声で泣いた。
祖父の設計事務所に勤めていた母は、経済的な支えも失った。被災した大槌町では仕事を見つけるのが難しい。「子どもたちのためにも家庭を支えなければ」と、専門学校で資格の勉強をして働くために千葉県に引っ越すことにした。

◆母と別々に暮らした3年半。変化した親子の絆。
「やっぱり僕は、大槌に残る。僕はじいちゃんを探す。じいちゃんが帰ってくるのを家で迎えたい」。
引っ越しの日、日翔くんは母についていくことを断った。大槌町で祖母と暮らして祖父の帰りを待ちたかった。母に何度もついてきなさいと促されても、聞かなかった。
約3年半、親子は別々に暮らした。母が千葉県から大槌町の実家に帰るのは、数ヶ月に一度。母が千葉県へ戻る時は、自宅前でいつも、目に浮かぶ涙がこぼれないように歯を食いしばって見送った。
小学6年になる直前に、母が大槌町に戻ってきて再び一緒に暮らし始めた。しかし、本音が言い合える関係にすぐにならなかった。母の苦労、震災の被害、祖父のこと・・・。震災を機に起こったすべてのことが、無意識に「良い子」でいるように振る舞わせた。
生活が少し落ち着き始めた半年後、母と自宅近くの堤防を歩いていた。ふと「俺、好きなことやってもいいの」とこぼした。母は「好きなことじゃないと続かないしね」と笑顔で返した。
友達と一緒にやりたいと思っていたバスケットボール。空手も好きだけれど、仲の良い友達と一緒のチームに入ってプレーする喜びを味わいたかった。入団したバスケットボールチームを通じて徐々に親子で本音を言い合える仲に深まっていった。

中学に入ると、バスケットボール部に入部し、1年の夏からレギュラーになった。相手のドリブルについていける強い足腰は空手で培った。3年になった今はチームのエース。強いチームと対戦し苦しい試合をしたときも、自然と「最後まで諦めるな」とチームメイトに声をかける自分がいた。
◆CFCの支援が決定。夢のために勉強に励む。
将来の夢は人の命を救う救急救命士になること。消防士になった兄の姿と、いつも事務所の前の横断歩道で、歩行者が安全に通行できるよう誘導し、人助けをしていた祖父の姿を見てそう思った。誰かの喜ぶ顔を見ている時の温かい祖父の笑顔が好きだった。
夢を叶えるために大学進学を見据え、進学校の高校を目指す。母の手一つで家庭を支えるのは、経済的に苦しく、少しでも夢に近づけるよう、CFCの支援に申し込んだ。
2度申し込んだが、選ばれず、3度目の申請。通知書が自宅に届いた時、封筒の厚みが違った。「日翔、いつもと雰囲気が違うよ」と母が郵便受けから持ってきた。思わず「おぉ」と声を上げた。参考書も繰り返し使ってボロボロになっていたが、これでもっと勉強ができると喜んだ。

今はクーポンで、隣町の塾に通うことができるようになった。多くの同級生たちが進学校を目指す塾の雰囲気に刺激を受けて自宅での学習時間も増え、勉強に意欲的になった。
「これから受験だし、支援してくださっている人の気持ちに応えるためにも、精一杯、頑張らないと」と気を引き締める。部活との両立の日々が続く。
◆祖父が残してくれたもの。理想の姿を追いかけて。
不意に家族や近所の人から「じいちゃん、どこにいるんだろうね」と聞かれることがある。
「ん?ハワイじゃねえの」と答える。
あの日、祖父は、津波が押し寄せるなか、渋滞する車の窓をノックして、「走って逃げろ」と声をかけて回っていたという。それ以降の消息の手がかりはない。家ごと津波で流され、祖父の思い出の品は何も残っていない。でも、「自分の中にじいちゃんが教えてくれたものがたくさんある」。
あれから7年。「どこかで生きているんじゃないかと思う時がある」。厳しくも温かかった祖父の姿を思い浮かべながら、理想の大人に近づけるように日々を過ごしている。
※2017年度年次報告書の掲載内容を一部編集しています。
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