本田圭佑選手が世界で活躍する理由。恩師が語る学ぶ力と育成哲学とは(前編)

辻 和洋
スタディ通信編集部/CFC情報発信チームディレクター

FIFAワールドカップに3大会連続出場し、得点を挙げるなどして活躍した本田圭佑選手。世界の名門クラブを渡り歩き、今や日本を代表するサッカー選手の一人となった。

本田選手の活躍の裏には、多くの指導者の存在がある。彼の強みを大切に見守り、「輝く場所」を作ってきた恩師たち。その中でも本田選手を幼少期から、最も長く見届けてきた指導者がいる。大阪府摂津市の元中学校教員、田中章博先生。現在は本田選手プロデュースの中学生を対象としたサッカークラブ「STFC. Partida(パルティーダ)」の総監督を務める。

本田選手が世界で活躍する秘訣は何か、田中先生は教師として、サッカーの指導者として子どもたちとどう向き合ってきたのか——。

本田選手の故郷・大阪府摂津市を訪ね、田中先生に子どもたちの学びについて話を聞いた。インタビューは(前編)・(後編)の2回にわたってお届けする。 今回は本田選手にフォーカスし、田中先生から見た彼の活躍の裏側にある「学ぶ力」と育成環境についてひも解いていく。

【田中章博(たなか・あきひろ)】「STFC. Partida」総監督。1974年、体育教員として摂津市立の中学校に勤務。摂津市立第三中のサッカー部顧問時代、3回全国大会へ導く。30歳でJFA公認A級ライセンスを取得。2002~2010年、関西トレセン・ユースU15を指導。摂津市立第二中の校長を最後に、定年退職。2012〜2018年、摂津市学校教育相談員(部活動振興担当)。大阪体育大卒。京都府出身。1951年生まれ。

数々の有名選手を育てた田中先生

大阪府の北部にある摂津市。江戸時代、京都から大阪まで水運で栄えた淀川が流れる。街は町工場が並び、日中、周辺の市町村から大勢の人々が働きにやって来て活気づく。夕方になると、日中の雰囲気とは変わり、穏やかな街の顔を見せる。ここに本田選手の故郷がある。

摂津市内の市営グラウンドで、サッカー教室が開かれていた。「なぁ、コーチのひとー!」。西日が差すグラウンドで、小学生が指導者の手を引っ張り、大きな声でそう呼びかけた。

その指導者が、本田選手の恩師の一人である田中先生だ。サッカーの指導者となって約45年。今もグラウンドに立って、子どもたちと一緒にボールを追いかけている。

宮本恒靖、松井大輔、山口敏弘、森下仁志……。田中先生は、トレセン(選手の強化育成の場)や部活動で数々の有名選手のユース時代に育成指導を手がけてきた。「日本サッカーの父」と言われるデットマール・クラマー氏に育成論を学び、1993年のJリーグ開幕前にはブラジルで1年間視察。元摂津市の中学校教員であり、サッカー選手育成の先駆者の一人でもある。

「自分の強みが活かせるのは、ここやから」と、日本サッカー協会やプロの世界ではなく、中学校教員を引退した現在も、地域のサッカー教室や本田選手プロデュースのクラブチームなどで子どもたちの指導を続けている。

「圭佑は学び名人」

本田選手を小学生の頃から知る田中先生は、彼の特徴をこう語る。

(撮影:久米 凜太郎)

「彼自身がもう、そんなに豊かに育ってないし、その中でやっぱり学ぶ力というか、もういろんなところから学ぼうとする。もう学び名人なんですよ」

田中先生が真っ先に挙げたのは、本田選手の「学ぶ力」だった。

「圭佑はけがのときも、ベンチで座りながら、もしくはトレーナーにマッサージ受けながら、『あの時、俺は何でけがしたのか』ってかなり深く学ぼうとしてるわね。『スピードがあったら相手を抜けていた』って感じたら、スピードアップせなあかんと言って陸上のスピードトレーナーを入れたりね。一つひとつの自分の感性を、うまく学びにつなげるっていう意味では、もう名人やからね」

田中先生(左)の元に挨拶にやってきた本田選手(2008年、摂津市内で)

田中先生は本田選手の幼少期を振り返る——。

田中先生が中学校の部活動で本田選手の兄・弘幸氏を指導していた頃、小学4年生だった本田選手は所属しているクラブチームだけでは飽き足らず、兄の部活にも参加させてもらっていたという。

「兄貴は『もう帰れ帰れちび、ちび』って言ってたんですよ。ちっちゃかったから。もうちび帰れって言ってるけど、他の部員が『弘幸、そんな言うたらんでええやんか』って言うて、圭佑を受け入れてくれたんですね」

本田選手は、幼少期から兄をはじめ、自分よりもうまい選手たちの背中を常に追いかけてきた。 「圭佑は幼い頃から、お手本になるものをいつも探している。物まねから入っとるわね。お兄ちゃんが大概いろんなお手本になってたんやけどね」

(撮影:久米 凜太郎)

小学生の頃から中学生に混じってプレーしていた本田選手。そこで見守ってきた田中先生は、本田選手の性格をこう表現する。

「関西弁で言えば『がめつい』やね(笑)。自分と相手の間にある五分五分のボールは、勝負ちゃうやん、全部俺のボールや。そういう考え方ですね。真ん中に置かれた食事はもう早いもん勝ちなんですよ。真ん中に置かれたぼたもちを、がぶっといくのは、技術でも戦術でもなくて、自分の欲なんです。食べたいんです。そういうのとサッカーがダブってんのよね、彼の中で。だから五分五分のボールは絶対負けない。球際は強い、激しい」

小学生ながら、左利きの足の器用さとボールを奪い合う球際の強さが際立っていた。

は強いですね。スポーツは我が強くないとできませんしね。小学生でもあったけど、心の中はキッズなんですね。サッカーはゴールを目指すものなのに、圭佑はボールを目指していた。ボールが大好き。ゴールよりもボール。俺にくれ、俺にくれって」

中学生になり、ガンバ大阪ジュニアユースへ入団

そんな本田選手の個性の強さを見守り続けていた田中先生。小学6年生になった本田選手は、中学では田中先生のもとでサッカーがしたいと志願した。しかし、田中先生はちょうど異動が決まり、指導できなくなってしまった。

「圭佑は転勤先の学校まで来るって言ったけど、本来の中学校に行って、その代わりにガンバ大阪につなげるからって言ったんです。もうセレクション(入団選手選考会)が終わっている頃でしたけどね。無理やり連れていって、ちょっとやらして。もし左利きの選手がその年代にいなかったら、入れてくれるかも分からんなぐらいの、大人の計算で連れて行きました」

しかし、当時、ガンバ大阪ジュニアユースには、同じ年に左利きで飛び抜けて有名な選手がいた。家長昭博選手(現・川崎フロンターレ所属)。2018年のJリーグ最優秀選手にも選ばれた家長選手は、当時からずば抜けた才能を発揮していた。

「ジュニアユースの監督とユースの監督と私で、とりあえずちょっとアップやって、『圭佑、入れ』と言ってボール回しをやりました。圭佑はボールを追いかけましたが、もうがんがん回されるもんで、『圭佑そんだけで終わりか』とか誰かが言うたんかな。誰かがたきつけた次の瞬間、監督のすね目がけてストーンって、スライディングしたんですね。監督のすねから血がだらーと出るくらいスライディングを(笑)」

そして、その日の帰りにガンバの指導者らから「田中先生、もう預かりますわ」と引き受けてもらったという。田中先生の「大人の計算」は外れたものの、本田選手は入団させてもらえることになった。

サブメンバーなのにチームの中心

中学になると本田選手は体が大きく急成長。運動能力とのバランスを崩し、うまくプレーできなくなっていた。ガンバ大阪ジュニアユースではサブメンバー。試合にはほとんど出られなかった。

「苦しんでいたと思いますよ。でも、これっぽっちもそんな様子は見せなかったですけどね」

ただ、本田選手は他のサブメンバーとは違うところがあった。

「試合のときは真ん中にはいなかったけど、オフザピッチ(グラウンド外)のときはいつも、家長やらいっぱいおる中の真ん中に圭佑がいた。そこではやっぱり中心やったよね。そういう子なんですよ、彼は。絶対俺はおまけじゃない、真ん中におらなあかんっていう本能を持っていた」

サブメンバーでも弱気にならず、ひるまない。それができたのは、「学ぶ力」があるからだという。

「試合に出られなくても、外からでもちゃんと学んでいたんやね。『あのときは、おまえああやったけど、あれは違うやろ』みたいな話を、その輪の中で、サブメンバーの圭佑が真ん中に座ってやっている。強い子やなと思った。圭佑は学ぶ力がある。仲間やうまい選手からとか、周りの学べるところは、徹底して観察して学んでいたと思いますよ」

ボールのないところで考えて「開花」

ガンバ大阪ジュニアユース時代は思った通りに実力を発揮できず、高校年代のガンバ大阪ユースには「戦力外」として入ることができなかった。しかし、ガンバ大阪ジュニアユースの島田貴裕監督からの紹介を受けて、視察をした石川県の強豪・星稜高校の河崎護監督の目に止まった。

(撮影:久米 凜太郎)

「河崎監督が圭佑を見たときに、『この選手やるかも分からんっていうのはありました』って言っていましたね。『大きいけど動かんかったでしょ』って言ったけど、ボールがない時に周りをうかがうっていうか、狙ってるというか、ボールが入ったらどうするか、常に考えている。ボールが動く度に周り確認して。情報を得ながら自分のプレーにつなげるっていうような習慣がすごく身に付いている。2つ返事で本田を選んだって言っていましたね」

田中先生、河崎監督、島田監督は同じ大阪体育大出身のつながりもあった。田中先生、島田監督が本田選手の性格やプレースタイルの特徴を河崎監督に伝えることができた。

「私が伝えたものは、やっぱり球際が強い。それから、ゴールするよりボールが欲しい。キッズレベル(笑)。ただしボールが入ったら強いよって、そのときはね。安心してこのような“カルテ”を渡せましたね」

すると、本田選手は星稜高校で才能が開花。高校3年では主将として全国高校サッカー選手権大会でベスト4まで勝ち上がった。

「圭佑は指導者のリレーでうまく大きな花が咲いたよね。普通、そううまくリレーしないじゃないですか、日本のシステムでいったら。中学はこの先生、高校はこの先生ってね。それがたまたまそれぞれの指導者がつながっているところで、彼の良さも課題も全部1つの“カルテ”としてリレーできたことが、彼にとってはラッキーだったのかもしれないですね」

田中先生は本田選手の高校での「開花」をこう分析する。

「ガンバでベンチに座っていたから、オンのところじゃなくてオフのところもしっかり見られたんでしょうね。そこで彼は何を学んだかっていうたら、試合でボールを持っている時間って数分じゃないですか。持っていない時間がほとんど。その持っていない時間にどれだけの情報を持ちながらプレーできるかっていうことやね」

「河崎先生もそこをすごく見てくれていて、オフのときの準備がすごくいいって。彼のその年代、その年代の強みをちゃんと伝えていって、最終的に大きくなった圭佑に運動能力の発達がきて、そのときに化けたということですね」

プロサッカー選手に、そして世界へ

本田選手は高校卒業後、Jリーグ・名古屋グランパスエイトに入団。その後、オランダ、ロシア、イタリア、メキシコ、オーストラリアと名門クラブを渡り歩き、日本を代表するサッカー選手となった。

なぜここまで活躍できたのか。

(撮影:久米 凜太郎)

「振り返ってみたら、圭佑はその時代その時代で、何で自分が試合に出られないか、どうしたら出られるか、すごく具体的に考えている」

よくメディアで取り上げられる本田選手の「ビッグマウス」とは裏腹に、緻密な計算があるという。

「例えば、圭佑は最初にオランダのチームに行った。一番試合に出られそうやと思ったからやね。オランダって体格の大きい選手が多いじゃないですか。で、彼、小学生の頃からでっかい中学生の中でやっているから、コンタクトプレー(競技者同士の接触プレー)をしても、体の大きさはあんまり気にならない。だからスペインとか、体の大きさは日本人っぽいけど、プレーやボールを回すのが速い国は、まだ俺はそのレベルじゃねえなって思って、オランダに行ったんですね」

本田選手は、2008年、当時オランダ2部リーグのVVVフェンロに移籍。2008-2009年シーズンには、16ゴール13アシストを挙げ、2部リーグ年間最優秀選手に選ばれた。エースとして、チーム1部昇格にも大きく貢献した。

「オランダでちょっと点取れるようになってきて、さあビッグクラブ行くんかなって思ったら、ロシアを選びましたよね」

オランダで活躍し、世界で注目される選手になった本田選手が次に選んだ地はロシアだった。イングランド、スペイン、イタリアなど世界トップレベルのリーグではないロシアという移籍先を意外に感じたファンも少なくなかった。

「移籍先はCSKAモスクワで、あのチームはヨーロッパ選手権に出られる切符を持っていたんですよ。いきなりビッグクラブでヨーロッパ選手権を経験するより、出られるチャンスのあるロシアでヨーロッパ選手権を経験しようって、圭佑、思っていたんでしょうね」

2010年、CSKAモスクワに移籍。本田選手はヨーロッパのクラブ王者を決める「UEFAチャンピオンズリーグ」に出場。豪快なフリーキックでゴールを決めるなど、ロシアリーグのチーム初となるベスト8進出の原動力となった。

「ロシアで経験を積んで、ヨーロッパ選手権も出て、やっと最終章に入ろうということでACミランに行った。ところが、出だしは良かったけど、結局出場機会が少なくて、完璧に心肺機能が上がらない、走り切れない」

2013年、イタリアセリエAの名門クラブACミランに満を持して移籍。エースナンバー「10」を背負ってプレーした。2014年シーズンは開幕7試合で6ゴールを決めるなど、序盤は活躍。しかし、チーム成績の低迷もあり、監督が相次いで交代するなか、本田選手はなかなかレギュラーに定着できなかった。

(撮影:久米 凜太郎)

「日本代表に選ばれているけど、クラブでゲームから離れて、心肺機能が落ちている、調子が上がらない。もうこれ、立ち直るには何やろって思ったら、彼が考えたのはパチューカの高地練習。毎日のトレーニングは標高2,000メートルでやるわけやから、ほっといても高地トレーニングで心肺機能が上がりますよね」

ワールドカップを翌年に控えた2017年、ACミランからメキシコの強豪クラブであるパチューカに移籍した。

「それで心肺機能が上がって、また日本代表で動けるようになっているんですね。それでロシアワールドカップが終わって、もう引退でもいいのかなって思ったけど、東京オリンピックにオーバーエイジ枠で出たいと。それで体力的なことも考えて、日本との時差の負担が少ないオーストラリア」

2018年のワールドカップに出場し、日本人初となる3大会連続ゴールを決めた。ワールドカップを終え、次はオーストラリア・メルボルンビクトリーFCへの移籍を決めた。

「すごくよく考えている。自分の今の体とその状況で、オーストラリアのサッカーってまあメジャーじゃないけれども、レギュラーでやっていける、自分が主導権を握ってサッカーやれる環境っていったら、オーストラリアOKじゃないかみたいなね。時差がそれほどないし、日本に帰ってもカンボジアへ監督で帰っても、体にはこたえないですから」

自分の実力を見極め、着実にステップを踏む。そして、大きな目標に近づいて行く。本田選手の全ての決断は、プロサッカー選手としてどう生きて行くのか、自身のキャリアを考え抜いた選択だったという。

客観的に見る。「背伸び」をする

(撮影:久米 凜太郎)

「自分を客観的に見ている。ガキのころからそうです。自分で自分のことを分かってるんですよ。もう、ここはうまくいかなくて、ここはうまいこといっててというのがね。小学生の頃、中学生の試合に出したときにも、『どうやった、どうやった、俺どうやったって』とよく聞いていた。自分をちゃんと客観視できているんやけど、それでもやっぱり確認したいんやね。コーチに確認して、『ああ、やっぱりあそこはこうやってんな』というふうにね。常に自分を見つめ直して、何が自分に今一番いいのかっていうのを考えて選んでいますよね」

自分を客観視する。それと同時に目標の立て方にも工夫を凝らしているという。

「無理しない、身の丈に合った目標設定があるっていうか、スモールステップを大事に踏んできたっていうのはすごくあると思いますよ。まあ小さい頃『背伸びの経験』ってあるじゃないですか。ちょっとやってみようかなという…。それと同じように、背伸びして、背伸びしてここまで来たっていう。だから、圭佑は子どもたちにも『もうちょっと背伸びしてみ』って言うのは、それを大事にしてきているってことなんじゃないかな」

一見、華やかな大舞台で数々の結果を残し、強気の発言で順風満帆に活躍してきたように見える本田選手。しかし、その裏側では、学び、考え、試行錯誤を繰り返す日々があった。

世界に羽ばたいた本田選手。どう育成されたのか

本田選手は個性を伸ばし、輝きを放つ選手へと飛躍を遂げた。田中先生は、本田選手の成長ぶりを「育成」の視点からこう振り返る。

(撮影:久米 凜太郎)

「元々圭佑は指導者のアドバイスはしっかり聞く子でしたが、自分の判断を優先してプレーする我の強い選手でした。従来の指導ではつぶしていた可能性は十分あり得ましたが、これは世界をお手本とした、個々の持ち味を尊重する近代サッカーの育成方法のおかげだと思っています」

約45年間、ユース世代の指導者として日本のサッカーに携わってきた田中先生は話す。

「近代サッカーの指導は、その子のストロングポイントを残しつつ、オールラウンドなフットボーラーをつくっていく。昔は、ユース世代の指導者でも本当はその子の強みなのに、個性が邪魔をしているみたいな言い方をしている時代がありましたね。ドリブルが大好きなのに、パスやろって言っていましたね。そうすると、子どもも自分の強みのドリブルをやめて、やっぱりパスをするんですよ。その子の良さを生かせていなかった」

指導者の正しいと思うプレーに導くことが「あるべき指導」だとされてきた時代があったという。

「指導者が『俺に付いてこい』みたいな、教えれば教えるほど、その子の個性、とんがったところを削って……。そつはないけど、怖くないっていう選手をいっぱい育てていましたよね。そういう選手を集めたら、監督の思うように動くから、勝っちゃうんですね。でも、スペシャルな選手が育っていなかった」

しかし、ユース世代の育成は、従来の「あるべき指導」ではない点に最も大切なことがあるという。

「ユースの世代で大事なことは、プロセス。何ができて、何ができなかったか。勝利は目指すが、結果を受け入れて、プロセスを大事にする。チームの目標は次の年代で花を咲かせようということ。次の年代で1番自分らしい、いいプレーができるように、次の指導者にうまくリレーしてあげられるようにすることですね」

本田選手はこうした育成方針を大切にする指導者たちに巡り合ってきた。

「圭佑は、我が強く、学ぶ力があった。そして、それを周りが受け入れてくれる環境があった。ガンバの島田監督は圭佑の個性に合う高校を見つけてくれた。星稜高校の河崎監督も当時、初めて県外から選手を引き受けて、ちゃんと部屋も与えてくれた。すごく話を聞いてくれて、家庭的な温かさのあるチームだった。そして、元々ピッチ外では真ん中におった子やから、日の当たらないところからこらえてこらえて、パッとフォーカスしてもらえたときに化けましたね」

摂津市の中学校を訪れる本田選手(2010年、摂津市内で)

個性を認める育成

田中先生の指導者としての育成哲学がある。

(撮影:久米 凜太郎)

「一番大事なことは、指導者が思春期の子どもを理解すること。現象面だけを見て追い詰めてはいけません。生活の背景を知り、子どもの目線に一歩寄ることです。そして、子どもに自信をつけさせること。厳しくすることも必要ですが、子どもに寄り添ってやる場面もないと子どもの自立は進んでいかない。いかに自信をもたせるかが大事です」

子ども一人ひとりの抱えている背景を見ていくこと。そして自信を高め、自立を促すこと。

「私は主に中学生を指導していますが、中学年代でどんなふうに成長していけるか、そのためには今、どういう栄養素が必要なのかを考えます」

「例えば、早熟で体が大きくて、少々コンタクトプレーも強くて、足も速い。でもプレーは雑という子は、次の年代で活躍するには正確な技術を突き詰めてやらなあかんでしょう。反対に、晩熟な子は自分の弱さを知っているから、コントロールもうまくやるし、タイミング良くプレーする。ただ、自分はまだ弱いって感じて消極的なプレーにしかならない。そんな子には一番の強みを言ってあげて、まずその強みでチームに貢献しなさいとアドバイスします」

子どもたちの発達は一人ひとり異なる。ユース世代の指導者はその子に応じた育成が必要になってくる。

(撮影:久米 凜太郎)

「15歳ぐらいまでは、その子を評価すること自体が間違っています。発育段階が早い子、遅い子がいるのに、この子がマルで、この子はペケやとか、それは言えない年代です。だから子どもをまず評価しない。あなたの強みはこれやで、課題はこれあるけれども、今強みでチームに貢献してくれよみたいな、そういう持っていき方がいい」

そうすると、子どもたちも自信がついてくるという。

「やっぱり子どもは叱られるより認めてもらいたいんですね。例えば、目の前でコントロールミスして相手にボールを奪われるわけですよ。目の前で見ていると、『おい、しっかり止めろよ』と言ってしまいがちですが、誰も失敗しようとしてプレーしている選手はいないんです。一番本人が『やってしまった』と思っているわけやから、ミスを誇張してやる必要はないでしょう」

大人に認めてもらえることは、子どもにとって大きな成長のきっかけになる。どんどん意欲的になってくる。

「子どもの『こんなふうになりたい』とか『これやりたい』とか、そういう思いを精一杯大人がサポートしてやるということが大事なんじゃないでしょうかね。その中でその子の本来の強みが生きてくる」

田中先生は子どもの可能性を信じた指導が根底にある。これまで田中先生のもとで育った多くの選手が後に花を咲かせている。本田選手も原点には田中先生との出会いがあった——。

しかし、田中先生はこうした育成哲学を初めから持っていたわけではなかった。旧態依然とした勝利を追求することにとらわれた指導をしていた時代もあったという。ある時点を境に大きく指導方針を変えたのだった。その大きな転換点は「日本サッカーの父」であるデッドマール・クラマー氏との出会いだった。(つづく)

摂津市長、田中先生と談笑する本田選手(左)(2010年、摂津市内で)

《取材後記》

今回は、本田圭佑選手にフォーカスし、一番近くで、一番長く見て来た恩師の田中先生に本田選手の活躍の秘訣を語ってもらった。本田選手が輝く理由を、田中先生は開口一番、身体能力でもなく、卓越した技術でもなく、「学ぶ力」だと話してくれた。

たとえプレーしていなくても、怪我をしていたとしても、常に貪欲にたくさんの情報を集めて自分の成長の糧にする。そして、自分を客観的に捉え、少しだけ「背伸び」をして挑戦し続ける。その小さな積み重ねが本田選手を世界の舞台へと導いたのだという。

私自身もサッカー経験者で、高校2年の頃、本田選手のいるガンバ大阪ジュニアユースの中学3年生たちと練習試合をしたことがあった。当時、家長選手は知っていても、本田選手の名前が耳に入ってくることはなかった。その時から夢を諦めず、コツコツと学んでいたのだろうか。本田選手の活躍は、学び続けることで人は大きく羽ばたけるのだと勇気を与えてくれるだろう。

一方、彼の強みを潰すことなく、温かく見守り、進むべき道を示してくれた指導者の存在は大きい。子どもの背景を理解する姿勢、評価を下すことなく強みを伸ばす姿勢——。田中先生の育成哲学は、サッカー指導者に限らず、多くの教育者にとって大切な心得なのかもしれない。

(取材・執筆:辻 和洋
(写真:久米 凜太郎)
(取材協力:摂津市広報課)

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スタディ通信編集部/CFC情報発信チームディレクター
研究者、ライター・編集者。武蔵野大学グローバル学部非常勤講師。読売新聞社、産業能率大学総合研究所を経て、独立。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了(中原淳研究室)。記者時代は東日本大震災発生翌日から宮城県を取材。組織内人材育成に関する教材、書籍を企画・編集。趣味はサッカー、登山。Twitter: @kazuhiro0402