人生の忘れ物を探して。沖縄唯一の夜間中学でおじぃとおばぁが学び始めた理由

有銘 佑理
スタディ通信編集部(CFC関西事務局)

私は沖縄県那覇市で生まれ育ちました。以前仕事で、米軍基地の近くに住むお年寄りの方々の戦争体験や基地被害の聞き取り調査に携わる機会がありました。

事務所にいると、「書けないから、代わりに書いて」と言って、何も書かれていない質問票を持ってくるおじぃ、おばぁたちにたくさん会いました。私はその頃、「書けない」ということがどういうことか分かっておらず、単に高齢だから、文字が見えづらかったり、手が動かなかったりするのかな、それとも、戦争体験を思い出したくないのかなと考えていました。

もちろん、そのまま帰すわけにはいかないので、こちらが質問票を読み上げ、一問ずつ聞き取っていきました。そうすると、おじぃやおばぁは、過去の経験や、今の気持ちが溢れてきて話し出すと止まらない。ゆっくりと空白を埋めていきました。

それから数年が経ち、31歳になった私の中でおじぃやおばぁとの経験が遠い記憶になりかけていた頃でした。ふとテレビで「夜間中学」のニュースに触れたのです。その時、私に真っ白の質問票を返してきたおじぃやおばぁの中に、「字を読むことや書くこと自体を教わっていない」人たちがいたのではないか、その可能性を初めて考えました。

私が出会ったかもしれない、「字が読めない・書けない」というお年寄りたちの背景に何があったのか——。今回、その答えを知りたくて、那覇市内の自主夜間中学校「珊瑚舎スコーレ」を訪れました。中学といっても、在籍しているのは全て60代以上のおじぃ、おばぁたちです。

おじぃ・おばぁの授業風景

「ニジリ(右)、ヒジャイ(左)、ニジリ、ヒジャイ……」。午後6時。秋の沖縄は、南国と言っても、この時間になると涼しい風が吹く。日が落ち、校舎の窓から外に光が漏れている。教室に集まった生徒たちは、授業前の日課としている「うちなーぐち(沖縄語)ラジオ体操」を始めていた。

中学1年生から3年生までみんなで輪になり、号令に合わせて体を動かす。「てぃーち(1)、たーち(2)、みーち(3)、ゆーち(4)、いちち(5)、むーち(6)、ななち(7)、やーち(8)……」。お互いの顔を見て体を動かしていると、自然と笑みがこぼれ、会話も生まれる。体の向きも、手の高さも、バラバラでいい。表情や体の動きから、クラスメイトの今日の調子が伝わってくる大事なコミュニケーションの時間。思い思いに体を動かして、それぞれの教室に分かれていく——。

NPO法人「珊瑚舎スコーレ」の校舎は、那覇空港から車で約20 分、那覇市樋川・与儀十字路の一角に建つ。ベランダからは1972年の沖縄復帰記念式典の舞台になった旧那覇市民会館や与儀公園が見える。ここは沖縄の歴史を見つめてきた場所でもある。

珊瑚舎スコーレは2001年4月に開設。初等部、中等部、高等部、夜間中学校の4課程がある。夜間中学校は2004年4月から始まり、現在は65〜86歳の約15人が通っている。かつてテレビやラジオで取り上げられて周知された時は、約60人が在籍したこともあった。

夜間中学校は、前期(4月~8月)、後期(10月~3月)の2期制。月曜日~金曜日の午後6時から9時まで、一日3コマの授業を行う。時間割には日本語、数学、英語の基本教科から、沖縄民謡、体育、音楽、美術など芸術科目も並ぶ。

また、「シンカ(仲間)会議」という授業では、1年生から3年生までが一つの教室に集まり、日頃のことや、クラスのこと、学校や世の中の出来事について話し合うという時間もある。

月曜日の1限目は3年生の英語の授業。先生が「サツマイモの日」にちなんで、英単語のクイズを出している。

「サツマイモは中国から沖縄にやってきました」。先生がそう伝え、黒板に「China」や「Okinawa」のスペルを書く。生徒たちは、スペルが書き慣れず、罫線からはみ出してしまっても、ノートに懸命に書き取っている。

「ヨーロッパ大陸にコロンブスが伝え、それが中国に渡り、沖縄に渡ってきたんですよ。沖縄に持ってきたのは野國総管という人です。その後、薩摩に渡りサツマイモと呼ばれるようになりました」。先生はさりげなく、沖縄や世界の歴史も教えてくれる。

「コロンブスはどこの人?」、「おならは英語で何という?」。生徒たちは自然と浮かぶ疑問を投げかける。和気あいあいと授業が進み、50分があっという間に過ぎる。

「わからないことがわかるだけでも嬉しい」。生徒たちは柔らかい笑顔を見せ、そう話した。

公立の夜間中学校はゼロ。「沖縄戦」の爪痕

一般的に、「夜間中学」とは公立中学校に設置された夜間学級のことを指す。学齢期を過ぎた人々の学びの場などとして、8都府県31校に設置されている[i](2017年現在)。

昭和20年代初頭、戦後の混乱や貧困の中で中学校へ通うことができなかった人々にも義務教育を受ける機会を提供しようと、公立中学校の2部授業という形で夜間学級の設置が始まった。昭和30年頃にはその数は全国で80校以上を数えたという[ii]。

2010年度国勢調査[iii]によると、沖縄県内には義務教育を十分に受けられなかった未就学者が6,541人。そのうち約1,600人が戦中、戦後の混乱により学校へ通えなかった人々と考えられている[iv]。

沖縄では熾烈な地上戦によって、9万人以上の一般県民が犠牲になった[v]。多くの県民が犠牲になり、生き残った人々のことを「艦砲の喰ぇー残さー(艦砲の喰い残し)」と表現するほど、島には雨のように艦砲射撃が降り注いだ。地面のあちこちには砲弾の穴が開き、緑は焼かれ、白い石灰岩がむき出しになり、辺り一面が真っ白に見えたという。生活、文化、産業全てが破壊され、米軍統治下でスタートした沖縄の戦後復興は困難を極めた。

そのような歴史的事情もあり、沖縄には全国に比べ義務教育未修了者が多くいると考えられている。しかし、その実態の詳細は把握されていない。

沖縄県は公立夜間中学の設置について検討しているものの、今でもゼロの状態が続いている。現在、沖縄にある夜間中学は、この自主夜間中学校の「珊瑚舎スコーレ」のみだ。

「学校に行かんでいい」。軍のランドリーで学んだ英語。新里好子さん(85)

スコーレ自主夜間中学に通う3年生の新里好子さん(85)は、終戦直後のアメリカ統治時代に軍作業員として、14歳の頃からランドリーで働いた。

「私は勉強させられないで、仕事に行ったわけ。んめー(祖母)に、『あんたね、学校には行かんでいいから、軍作業の仕事に行きなさい』と言われて。ランドリーで働いていた。100人くらいいて、みんなうちなーぐち(沖縄語)を話す人。その中で育ったから、英語は話せない。父が持っていた下敷きにアルファベットの表があって、それでスペルを覚えた。その時から、知名好子(旧姓)、『CHINA YOSHIKO』と書きよった」

父の下敷き一枚を手に、独学で英語の文字を学んだという。その学びが職場で重宝された。

「子どもで英語を読める人もいないから、作業場で『私、英語書けるよ』と言ったら、アルファベットで名前が書かれたタイムカードが読めるから『タイムキーパーできるね』って言われて、タイムキーパーになった。終戦直後、アルファベットわかるだけで、いい仕事ができた」

そして、同僚にも英語を教えてほしいと頼み込んだ。

「現場に高校卒業していた大城さんって子がいたよ。この人にすがって、私は学問はないけど、いい仕事させられているから、本当の英語教えてと頼んで、英語を習った。北谷の浜辺で教えてくれよった。ありがたいさ。本当にありがたくて、高校卒業したみたいに、英語がわかるようになった。それで、書記の仕事ができた。一般の従業員の給料が3ドル。その時、私は5ドルもあったよ」

ランドリーの仕事は、結婚する20歳まで続けた。その後、20歳の時に離島に住んでいた夫のもとへ嫁いだという。

結婚後も、生活のなかで「小さな学び」を積み重ねる日々を過ごして来た。

「夫は高等科卒業。私は学校に行っていないけど、子どもたちの教科書を引っ張り出して勉強するくらいだったから、字はとーちゃん(夫)より良かった。とーちゃんが(字を書いて)出すものがあっても『やー(おまえ)かけー』と書かされた。だから、余計勉強しないとと思って。字を練習するようになった」

自分の子どもたちにも、思いを馳せる。

「子どもは4人。今は3人。一番末の子はアメリカで亡くなった。英語勉強しにアメリカに行った。行ったら、アメリカでは、日本語教えて、うちなーぐち教えてということで容易に返さない。あっちに1年間はいておこーねーというから、あんたの人生だからそうしておきなさいと」

すると、突然、海外から子どもの訃報が届いた。

「やがて1年という時に風邪で亡くなった。あっちでは一人だから、熱が下がらない。風邪が治らなくて、肺炎になって。沖縄にいたら、簡単には亡くさなかったと思うけど……。学問しに自由に、あっちこっち行ったのはよかったね。かわいそうだったけど、思うように英語も話せるようになって。自分の思った通りに行ったはずだったからよかったと思ったよ」

戦中、戦後と必死に生き抜いてきた。晩年になって初めて自分を見つめ直す時間ができた。その時に頭に浮かんだのが「学校」だった。

「夫は5年前に亡くなった。おうちで、とぅるとぅる(ぼーっとする)、ご飯食べて、寝て、テレビ見てするよりは、みんなに頭揉まれた方がいいかねと思って、3年前ここにお願いした。3年生になって、来年も2年生と一緒に3年生するつもり」

学校とは無縁だった80年。今こうして初めて教室で学んでいる。

「英語が好き。わかるから、英語。子どもたちの本を読んで、こんなの習っているんだねーとずっとやってきたから。数学は計算が遅い方で、でも先生方はとてもゆっくりで、教えるの上手で。国語は読み書きはわかるけど、全然わからない遠い昔のこともするでしょ。何千年も前に沖縄っていうのはこういうことでしたよと。うちなー(沖縄)の芋がヤマト(本州)のものになったり、沖縄から始まったものがあったりね。あぁ、そういうことですか、先生ありがとう。わからないこと、わかるだけでありがたい」

「海人」として丁稚奉公でっちぼうこう。実現できた独立、結婚の夢。心残りは「学び」だった。砂川明俊さん(79)

昨年度卒業した砂川明俊さん(79)は、現在“4年生”。砂川さん自身が卒業後も在籍を希望し、学び続けている。

「私は宮古島出身で、戦後すぐに生まれた。7歳から20歳まで海人(漁師)。サバニ(沖縄伝統の小型漁船)に乗って。7〜8歳は網元の家で掃除したり、9歳から本格的に海に。住み込みでいわゆる、丁稚奉公でっちぼうこう。厳しかったよ。母は自分が8つくらいの時に亡くなった」

終戦直後の混迷期、幼少期から親元を離れて漁師のもとへ弟子入りしたという。砂川さんは一人前になり、意を決して離島から沖縄本島へ渡った。

「21歳の時に沖縄本島に来た。一番夢を持ったのは、一つは結婚して家庭を持つこと。もう一つは、自営業して仕事をすること。親戚もいないし、誰も知らないけど、何とかなると思って渡ってきた。途中にセリ市があり、偶然友達に会った。仕事を探していると言ったら、『自分のところで働いたらいいさ』って、その日から3〜4年、住み込みで鮮魚店で働いた」

それから、建築関係の仕事を自営で始め、その後、結婚もした。

「2つの夢は叶った。問題は学校。学校1年も出ていないから、行きたいと思って。でも自営業だったから、なかなか行けなくて……。女房と息子がテレビでスコーレのことを知って、教えてくれた。(学校に行くのは)家族の希望もあった。友達も応援してくれて、『今から学校行って何するの』っていう友達は一人もいなかった。だから続けてこられた」

砂川さんは、学校での学びについてこう語る。

「読み書きは、あれさーね。妻にも教えてもらいながら、基礎を学んでる。好きな科目は国語じゃないかな。新聞なんか読んだりして、世の中のことがわかるから。入学してからはよ、本もたまに読むようになった。人の前でスピーチできるようにもなった。今までは、はじかさーしてた(恥ずかしがっていた)。今住んでいるハイツの役員として、みんなの前で説明したりもするよ」

一つずつ、できないことができるようになる喜びを感じているという。

「この学校が大好きなのはね、先生が怒りもしないで、芯から教えてくれる。学校好きですね。たくさん習っても忘れる。でも、これから一つでも覚えていればいいさ。先生を親としたら、みんな家族、ファミリー。勉強も大事だけど、友達をたくさん作ることも大事」

「今、4年生。今年いっぱいだけ学びを続けたくて。あとは、また考える。2016年6月に入学して、今年3月に卒業した。一番思い出に残っているのは、卒業式。今住んでいる糸満の兼城中学校の体育館で本物の卒業式をしてくれた。一人のために花のトンネルぐわーも。女房も息子も友達も来た。1年生、2年生も。いっぱい写真撮った。ちょっとスピーチもした。時間は10分くらいだったけど、卒業証書ももらって、ほんと一生の思い出」

79年間の人生の中のたった10分。しかし、そこで得た体験はかけがえのない一生の宝物になった。

「自分なんかの時代は、学校行きたくても行けなかった人がたくさんいるよ。これ別の人に読んでもらえるの?一つお願い。記事に書くんだったら、これ見て学校来てね。こういう学校もあるよと書いて」

「教師が学びの『同行者』となる」。珊瑚舎スコーレ代表の星野人史さん

元私立高校の校長で、珊瑚舎スコーレ代表の星野人史さん(70)は、自主夜間学校を設立し、ずっとおじぃ、おばぁの学びを見守り続けて来た。

「役所に行く時は、手に包帯をしていく。書類を前に『字が書けない』と言う勇気がなくて、怪我をしているふりをする……。屈辱的ですよね。そんな生徒さんがいました。80年間、天動説で生きてきた人もいた。理科の時間に太陽が動いているんじゃないんだよ、地球が動いているんだよと伝えると、『すごいことを知った』と。知ることそのものが喜びになる。皆さんとても温かい表情をしています」

夜間学校の生徒たちが学校に通うことは大きな意味を持つ。

「ここに来ている人にとって学校に通うことは人生の『忘れ物』、のど元にずっと引っかかっていた『忘れ物』を取りにきている。知識を得て学んで、思索して、人間観、社会観、ある一つの『観』をつくる。内側から自分を創る営み。本当はそういう学びを義務教育段階で実現しなくちゃいけない。スコーレの夜間中学は識字教室ではありません」

「学校で生徒たちは日常では体験できないことを体験する。学校文化の体験です。普段話さない人とも話すことも、授業の面白さの一つ。そして、『知る』ということ自体が喜びになります。学ぶことの楽しさを感じる。ひらがながやっとの人もいる。字が違う、筆順が違う、はねてませんと注意するのではなく、間違いは自分で気づく。間違っていることは気にしちゃいけない。教師は知識の伝達者というより、学びの同行者。みんなで学びの場を創ることを大切にしています」

スコーレで学んだおじぃ、おばぁたちの中には、さらなる学びを続ける人も少なくないという。

「夜間中学の生徒は特に知識に飢えています。みんな学ぶことに貪欲。卒業生の約4割が高校へ進学しました。放送大学まで進んだ生徒も1名います」

打ち切りになりかけた県の支援。進まぬ公立夜間中学の設置

沖縄県は、2008年度から珊瑚舎スコーレ夜間中学の卒業生に対する卒業証書授与を実施。2011年度からは「戦中戦後の混乱期における義務教育未修了者支援事業」として、民間事業者によって運営されてきた糸満市、沖縄市の夜間中学、そして「珊瑚舎スコーレ」に学校運営費の補助を行ってきた。

「これまでの県の支援は、1932年~41年生まれの人たちのみを対象としていました。しかし、本来そのような年齢枠は撤廃されるべきです。学ぶ権利は、年齢に関わらず、保障されなければいけません」と星野さんは語る。

2016年12月には、国会で「教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律)」が成立。この法律により、全ての地方公共団体は、義務教育未修了者に対して就学機会の提供や、その他必要な措置を講じることが義務付けられた。

時代の移り変わりにより、夜間中学は日本に暮らす外国人や、不登校などの事情で十分に学べなかった人々の学びの場としてのニーズも高まっており、国は各都道府県に最低一つの夜間中学を設置しようと支援を進めている。

星野さんは指摘する。「高齢の方は特に、遠方から通うのは難しい。国は夜間中学を都道府県に1つといっていますが、それでは足りない。県内では北部から離島も合わせて、区域ごとに7つは必要だと思います」

しかし、教育機会確保法の施行(2017年2月)から約2年が経とうとしている今も、公立夜間中学の設置は8都府県にとどまり、国の示す「各都道府県に最低1校」にすら、遠く及んでいないのが現状だ。

沖縄でも公立夜間中学校の設置を求める声が多いなか、要望に逆行する出来事が起こった。2018年3月、沖縄県が突如、自主夜間中学への支援打ち切りを発表。「一定の成果が出た」というのが、県の言い分だった。県の支援打ち切りを受け、糸満市、沖縄市の夜間中学2校は2017年度までに生徒受け入れを終了。沖縄には珊瑚舎スコーレ1校だけが残った。

「県は夜間中学支援を『戦後処理』といいます。処理とは、あまりにひどい言い方。学びたい人がいる限り、学ぶ場を提供するのは、県、国の責務です。学ぶ権利を保障する意識を持たなければいけない」。そう星野さんは強調する。

珊瑚舎スコーレでは、県からの支援再開を求めてすぐに署名活動を開始。県内外から2万305筆もの署名が集まった。今年6月、星野さんが県教育庁の教育長に、集めた署名を提出し、その結果、なんとか支援の継続を勝ち取ることができた。9月から再度支援が行われているものの、生まれ年による制限自体は依然残ったままで、支援の対象から外れる生徒が半数以上にのぼる。

「広く学びの機会を保障し、学びたい人はいつでも学べる環境が用意されている社会にならなければいけない。そのために国や教育委員会が抱え込んで考えるのではなく、様々な立場の人々と一緒に知恵を出し合うべきです」

珊瑚舎スコーレの夜間中学では、今日も英語の授業が始まった。

3年生の新里さんのノートにはきれいにアルファベットがつづられている。先生の問いかけに応えて、積極的に発言する。

「わかるだけでもう嬉しくてね。学校好きになれた。ありがたいですよ」

新里さんは教わること一つひとつを噛み締めている。そして、最後にこう話した。

「まだ学校にいたい」

《取材後記》

今回のインタビューで最初に感じたことは、生徒さんの「目がキラキラしている」ということでした。夜間中学で学びながら何を感じているか、今までどのような人生を送ってきたか、こちらが一つ聞くと、10以上の答えが返ってくる。お話をする声にも張りがあり、笑顔に溢れていました。授業でも本当に真剣な眼差しで机に向かう姿がありました。「学び」は生きる活力を生むもの。そのように感じました。

私の曽祖父は沖縄戦で亡くなりました。どこで亡くなったのかもわからず、最後に目撃された場所の石が一つだけ骨つぼに入れられています。戦中、戦後の時代、自分のための時間、友達と話す時間、机に向かい学ぶ時間は、決して当たり前ではなかった。たくさんの死を目の当たりにし、個性を表現する事が自由ではなかった時代を知っているからこそ、学び舎で自由に意見を言い合い、自分自身の興味関心を探求し、「自分を創る」ひとときを大切に、楽しんで過ごしているのだと感じました。まさにおじぃ、おばぁは「青春」を生きていました。

戦争の影響を受け、学びから疎外された人々、そして今からでも学びたいと望んでいる人々が今この時代に生きている事を忘れてはいけません。以前、私が出会い、白紙の回答用紙を一緒に埋めたおじぃ、おばぁの中にもそのような人がいたかもしれません。その方たちに残されている時間は長くはないのです。

学びから疎外されているのは、沖縄のおじぃ、おばぁだけではありません。日本の全国各地で、様々な立場の人々が、学びたくても学べない状況が生まれています。いくつになってもどんな人にも学ぶ機会を保障する社会をつくりあげていくことは、同じ時代を生きる私たちの責務なのではないでしょうか。学びの価値を強く感じるからこそ、そう思います。

(取材・執筆:有銘 佑理
(写真:金城 有紀)
(編集:辻 和洋


※訂正して、おわびします(2018年11月30日)
公立の夜間中学校の設置について、「8都道府県31校に設置されている」と表記していたのは、「8都府県31校に設置されている」の誤りでした。訂正しておわびいたします。


[i]文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室「夜間中学の設置推進・充実について

[ii]栗田克実(2001)「公立夜間中学の諸問題-歴史、現状、課題」. 北海道大学大学院教育学研究科紀要.

[iii]総務省統計局「平成22年国勢調査 産業等基本集計結果

[iv]沖縄県教育委員会公立中学校夜間学級等設置検討委員会(2018)「公立中学校夜間学級等設置検討委員会報告

[v]総務省「沖縄県における戦災の状況(沖縄県)

書いた人:


スタディ通信編集部(CFC関西事務局)
沖縄県那覇市出身。東京外国語大学朝鮮語専攻・地域国際コース卒業。在学中に早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)主催「日本コリア未来プロジェクト」にて、人々の和解と共生のための取り組みに関心を持ち活動。卒業後、沖縄にて市民交流事業や観光業に携わり韓国語翻訳・通訳業務に従事。沖縄の歴史や社会を学ぶ中で、「子どもの貧困」問題に触れ、その解決策を探るべく2015年公益社団法人チャンス・フォー・チルドレンに入職。Twitter: @ArimeYuri