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阪神・淡路大震災から31年を迎えて(スタッフ 小嶋新)

本日、阪神・淡路大震災から31年を迎えました。震災の犠牲になられた多くの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

現在のCFCの活動の原点は、阪神・淡路大震災にあります。

甚大な被害の中、避難所や入院先の病院で勉強を続ける子どもや、被災で家族を失った子どもたちに対し、学習支援やレクリエーション活動などを行っていた大学生が立ち上げたのが、のちにCFCの前身団体となるNPO法人「ブレーンヒューマニティー」でした。

震災から時が経ちましたが、当時の学生たちの「厳しい状況下に置かれた子どもたちのために何かできないか」という思いは、今なお私たちの活動の根底に息づいています。

本日は、神戸市出身のCFCスタッフ・小嶋が、震災当時の体験についてお話しさせていただきます。

■火災で真っ赤に染まった空、立ち上る黒煙

1997年1月17日、私は中学1年生でした。

阪神・淡路大震災発生時、神戸市長田区の自宅で寝ていた私は、突如として大きな揺れに襲われ、驚いて目を覚ましました。揺れが収まったあとも、それが何だったのかはすぐには理解できませんでした。

しばらくして外を眺めると異様なほどの明るさで、はじめは朝の陽の光かと思いましたが、すぐに眼下の街が燃えていることに気づきました。

空は真っ赤で、黒煙が立ち上っていました。自宅が山側にあったため、その様子がよく見えてしまいました。この景色は、いまでは鮮明ではありませんが、強く記憶に残っています。


(画像)提供:神戸市

地震から数時間後、電気・水道・ガス、すべてのライフラインが止まりました。電気は比較的早く復旧しましたが、水道とガスは1か月ほど使えませんでした。

神戸市長田区は被害が大きい地域でしたが、私の自宅はかなり山のほうに位置していたため、建物自体に大きな損傷はありませんでした。ただ、水を汲んだり、お風呂に入ったりするために、神戸市内のより西の地域(垂水区)の、同じく山側に住む祖母の家と自宅を行き来する生活が続きました。

通っていた中学校は、日常のように再開されるのかどうかすら分かりませんでした。自宅から中学校までは徒歩10分ほどの距離だったので、震災当日の朝方に、学校が開いているかを見に行きました。校舎には誰もおらず、登校している生徒もいませんでした。

学校がいつから再開したのかは、あまり覚えていません。被害が比較的少なかった地域とはいえ、生徒の何割かは学校に通うことができず、最も仲の良かった友人は、その時期、四国に避難していました。

1月から3月にかけてはプリント学習が中心で、1か月から2か月ほどは午前中だけで授業が終わっていたと思います。体育館は避難所として使われていたため、体育の授業はなく、当時所属していたバスケットボール部の活動も停止していました。

授業が通常の形で再開されたのは、中学2年生になってからだったように記憶しています。

■いま、震災経験を振り返って

震災から時が経った2023年、私はCFCに入職しました。東日本大震災や、それに続く災害において、CFCは被災地の子どもたちの学びを支えてきました。


(画像)毎年3/11には、職員と大学生ボランティアによる街頭募金を行っています

一方、阪神・淡路大震災の当時、私自身はまさに「支えられる側」だったのだろうと思います。

私たちの学年は受験を控えた時期ではなく、また他の地域と比較して被害も限定的でしたので、学校の授業に致命的な遅れが生じたという感覚はありませんでした。ただ、ひとつ上の学年は中学3年生になる直前の時期でしたので、授業の進行の遅れが受験に大きく影響したと、あとになって聞きました。

私がCFCに関わるようになったことが、阪神・淡路大震災の経験と直接結びついているのかどうかは分かりません。もし当時、CFCのような組織が存在し、何らかの支援を受けていたならば、変わっていたこともあったのかもしれません。

とはいえ、当時は自分自身が当事者でしたので、この経験を客体化して語ることは難しいのです。ただ、自分の価値観や生活が、震災を経験したあの期間を経て大きく変わったことは間違いありません。

執筆者:小嶋 新(広報・ファンドレイジング部 マネージャー)